トップページ > 薬の休憩室 > 薬の休憩室(第19回):~石楯尾神社のミステリー (Y.M) 石楯尾神社(いわたておじんじゃ)とは、延長5年(927年)の『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社で、鎮座地については「高座郡石楯尾神社」とある。延喜式内神明帳に記載された神社、延喜式内社または式内社といい、格式の高い神社ということで、相模の国の大社は寒川神社で藤沢市の宇都母知神社などが十三社に入っている。その中の1社が岩楯尾神社だが、現在、神奈川県には岩楯尾神社と名の付く神社が少なくとも4社、現在、諏訪神社となっているが、以前に岩楯尾神社だったと言われている神社が3社あり、高座郡岩楯尾神社はどれだったか?と言うミステリーになっている。 石楯尾神社(相模原市緑区名倉) 石楯尾神社は、神奈川県相模原市緑区名倉に鎮座する神社である。「名倉の権現さま」とも呼ばれる。 創建当初はいまの場所より僅かに西方の、甲斐国との国境(現在の山梨県との県境)により近い位置に鎮座していたと伝えられる。 旧来「エボシ岩」が礼拝対象であったが、明治に中央本線の鉄道建設工事の折に撤去されてしまった。また、この岩から見て当社は尾っぽの方に位置するので、「石楯尾(いわたてお)」と呼ばれるようになったとも言われる。 普段は余り訪れる人もいないひっそりとした神社ですが、本殿の中国模様の彫刻は見るものを引き付けます。名倉の岩楯尾神社が2番目に怪しいと思っている。 石楯尾神社(相模原市緑区佐野川) 石楯尾神社は、神奈川県相模原市緑区佐野川に鎮座する神社である。傍の蚕影山に本宮があったとされ軍荼利神社まで5分である。 110年に日本武尊が東征のときに持ち来った天磐楯を東国鎮護のためここに鎮め、神武天皇を祀ったのが始まりである。 坂上石楯は、高座郡の県主で当地の住人であった。764年に藤原仲麻呂の乱を鎮めた功によって、高座・大住・鮎川・多摩・都留の五郡を賜ったといわれ、石楯尾神社の庇護者であった。 1569年に武田信玄が小田原を攻めたとき焼かれたが、その後、再建されて今日に至っている。佐野川の岩楯尾神社が一番怪しいと疑っている。 石楯尾神社(相模原市南区) 有鹿神社奥宮、勝坂遺跡の傍にある。 諏訪明神(相模原市緑区大島) 鳥居の扁額に岩楯尾神社とあるが、大島諏訪明神で「お諏訪さま」と呼ばれている。本殿の裏には蚕影社が置かれている。 諏訪神社(大和市) 諏訪神社の東方に宮田塚と呼ばれた小さな石の祠があり、これが元宮といわれている。昭和53年に現在地に移転、祭祀している。この神社の本殿の中国模様の彫刻は見るものを引き付けます。 諏訪明神(座間、市入谷) 鎌倉街道脇にある小さな神社です。 皇大神宮(藤沢市鵠沼) 石楯尾神社(境内末社) 皇大神宮の社伝によると、現、皇大神宮の建立以前に石楯尾神社があったとされる。